2016年8月 1日 (月)

おしらせ

新たにブログを開設いたしました。
最近の説教につきましては、こちらを御覧ください。
いのちのいずみⅡ           http://silvanodaroit.hatenablog.com/

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2016年4月 3日 (日)

C年復活の主日

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C年復活の主日 ヨハネによる福音書20章1〜9節

 

私たちの視力では空っぽの墓しか見ることができませんが、復活を信じるならば、永遠に生き続けるイエス様が見えるようになります。

 

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2016年3月28日 (月)

C年復活徹夜祭

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C年復活徹夜祭 ルカによる福音書24章1〜12節

 

これまでに触れてきたイエス様の言葉と生き方を思い出すことによって、私たちはイエス様の復活を信じることができるのです。

 

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2016年1月 2日 (土)

C年聖家族

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C年 聖家族 ルカによる福音書2章41〜52節

 

イエス様は、伝統的な両親に象徴されるイスラエルに向かって、自分が生まれてきた本当の意味、自分自身の使命を告げているのです。

 

20153月に教皇フランシスコが開催を宣言した「いつくしみの特別聖年」が、無原罪の聖母の祭日である128日から始まっています。日々の生活の中で御父のいつくしみを思い、証しするように招かれている私たちですが、夫婦や親子など家族の関係においても心を開き、いつくしみ深く変えられることを目指すように招かれています。今年の10月、家庭をテーマにした世界代表司教会議(世界シノドス)が開催され、現代におけるキリスト教的家庭のあり方について話し合いがもたれました。世間の価値観に流されず、それぞれの家庭が愛と命のきずなを生きることができるために、私たちは、信仰の光に照らして、家族のきずなを再確認する必要があります。

今日は聖家族の祝日です。朗読される福音にも理想的な家族の姿が模範として描かれていると期待したいところですが、今日の福音を改めて読んでみると、模範というよりも、どこか変わった家族だという気がしませんか。旅行中、自分の子どもが迷子になったかもしれないのに、丸一日気付かずにいるということがあるでしょうか。エルサレムを出発する時に、自分の子どもが一緒にいるかどうか確認しなかったのでしょうか。子どもも子どもです。両親に何も言わず、勝手にエルサレムに残っていたのです。最後の母と子の会話は、お互いに相手を責めて喧嘩しているようにも読めます。特に、イエス様の最後の言葉は、心配して探していた両親に対してあまりにも冷たい返事と感じる人もいるでしょう。このイエス様の言葉を聞いた両親は、意味も理解できず、言い返すこともできませんでした。不思議なことですが、今の感覚からこのエピソードとやりとりを読むと、とても模範とは言えないのです。私たちは、今日の福音のページをどのように理解すればいいでしょうか。ルカは、福音記者として12歳のイエス様の生活の中の一つのエピソードを記録したというよりも、私たちの信仰を育てるためのメッセージを記していると読むべきです。

 今日の福音の中で、私たちがよく知っている「マリア」「ヨセフ」という名前が出てこないことに気付いたでしょうか。明らかにイエス様の両親が登場するのに、あえて固有名詞を使わずに、「両親」「母」という一般名詞で表現されています。これが、今日の福音を理解するための一つの鍵です。ルカはこの文学的な工夫によって、ある特定の家族の私的なエピソードを書いたのではなく、伝統的なユダヤ教の家族、さらにはイスラエルの民を象徴的に表現しようとしているのです。

確かに、ここには一つの家族が紹介されています。ユダヤ教の伝統に忠実な家族です。過越祭には毎年エルサレムへ巡礼していたということから、この両親がユダヤ教の律法と伝統的なしきたりを大切にしていることがわかります。さらに、自分たちが先祖から受け継いだ生きるための知恵や心のあり方を、次の世代にそのまま引き継いでいきたいと願っており、その意味では、ユダヤ教の文化において一つの理想の家族の姿が描かれているといえます。

エルサレムへ巡礼する時、自分たちの食べ物のほかに、献げものとなる動物を持っていくという決まりがありました。「申命記」16章はユダヤ教の三大祝祭日について書かれていますが、そこには「何も持たずに主の御前に出てはならない」とあります。神様の前に手ぶらで行くことはできませんから、各自の財産に応じて、牛や羊、鳩などを献げることになっていたのです。「民数記」15章には、「献げものに関する補足」として、細かい規則が書かれています。

巡礼団がエルサレムに近づくにつれ、彼らの喜びは大きくなっていきます。ケドロンの谷を渡り、オリーブ山に登り、ニカノルの門を通ってエルサレムの神殿の広場へ直接入っていきます。そこで献げものをし、祈ったり歌ったりして典礼を行いましたが、夜になると、典礼と同じ意味を持つ晩餐もありました。その晩餐では、父親と長男が中心となり、長男が父親に四つの決まった質問をすることになっていました。なぜ苦菜を食べなければならないのか、なぜ酵母の入っていないパンを食べなければならないのか、なぜ羊を食べるのか、なぜ巡礼してこのような晩餐をしているのか、という質問です。それは、父親がイスラエル民族の歴史と神様のいつくしみを説明するきっかけとなる質問です。奴隷だったイスラエル民族が神様に導かれてエジプトを脱出し、40年間荒野をさまよった末に聖地にたどりついたという話を、晩餐の席で父親が家族に話して聞かせるのです。

今日の福音の背景にあるのは、これまでに述べたような伝統的かつ理想的なイスラエルの家族の姿です。 

背景が理解できたら、今日のページを読んで深めましょう。

[祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられた]

日本語では「残っておられた」と書かれていますが、本来のギリシア語では、「抵抗してそこにとどまった」「周りの人たちの流れに逆らって自分の意志を貫いた」というニュアンスがあります。「残っていた」という自然な流れではないのです。お祭りが終われば、それぞれが日常の生活に戻っていくのが普通です。しかしイエス様は、この当たり前の流れに逆らい、反発して、エルサレムに留まった、他の人々とは違う行動をしたということになります。なぜそのようなことをしたのでしょうか。人々が伝統としてあたりまえのように行ってきた過越祭や巡礼の意味、信仰や生活のあり方をもう少し掘り下げて深くとらえたかったからです。自分は何のために生まれたのか、何のために生きるのか、すべてのことを当たり前のこととして受けとめず、きちんと検証して確かめたいというのがイエス様の考えでした。だからイエス様はエルサレムに留まったのです。

しかし、ユダヤ教の理想的な家族を作っている両親は、自分たちが先祖から引き継いだ生活の知恵やしきたり、信仰や心の持ち方などをすべてこれまで通り、子であるイエス様に引き継がせようとします。イエス様は、その流れをいったん止め、ユダヤ教の伝統や理想から離れて、独自の新しい道を歩み始めようとしているのです。

多くの親は、名前や財産だけではなく、自分たちが持っている人生の知恵や伝えるべき良いものを、子どもに引き継いでもらいたいと願っているでしょう。しかしイエス様は、それに抵抗しようとします。それはすなわち、ユダヤ教の伝統からひとりの子どもが離れようとしているということです。「母」であるイスラエルはこのことが理解できず、驚き戸惑っています。事実として両親は「親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかった」とあります。イエス様はそこにいなかったのです。イエス様は両親に従わず、逆に、両親がイエス様を捜し求め、従わなければならないという状況を作ったのです。今日の福音に書かれている内容は、このような意味です。

[三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問たりしておられるのを見つけた]

イエス様は、両親から離れてどこで何をしていたのでしょうか。神殿の境内の学者たちが聖書について議論する場に座り、話を聞いたり質問したりしていました。「座る」という表現には、イエス様自身が、12歳の子どもでありながら学者の一人として発言していたということが示されています。

この時のイエス様は、12歳の子どもでありながら独自の発想で聖書を解釈していました。それは、天の御父(アッバ)がすべての価値観の中心であり、イスラエル民族だけではなく世界中のすべての人が神の子であり、兄弟姉妹であるということ、この世界は神の家であり、私たち人間はすべてを神様からいただいて生きているということ、それがイエス様の「賢い受け答え」の内容です。問題を深く掘り下げるために質問し、自分の口から新しい聖書の価値観を説明するということで、「ラビ」すなわち宗教的指導者として、また学者としてのイエス様の姿がここで強調されています。

[母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです」]

母であるイスラエルは、新しい聖書の価値観を語るイエス様が理解できないと言っています。ここに、メシアの神秘があります。神のなさることを簡単に理解することはできません。ユダヤ人はメシアが現われるのを待っていましたが、新しい聖書の解釈として福音を語るというイエス様のようなメシアの姿は、誰も想像していなかったのです。

[どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか]]

これは、ルカ福音書の中でイエス様が初めて話した言葉です。単に子どもが母親に対して批判めいた口調で返事をしたというのとは違う、特別な意味が込められています。神様から命を与えられたひとりの人間が、神の家にいて神の子どもとして生きるのは当然のことだとイエス様は自分の親に伝えようとしています。イエス様は後に大人になってから、この新しい聖書の価値観である福音をあちこちで伝えるようになります。福音をのべ伝えること、それこそがイエス様の本質でありアイデンティティーです。イエス様は、伝統的な両親に象徴されるイスラエルに向かって、自分が生まれてきた本当の意味、自分自身の使命を告げているのです。

[しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった]

伝統的な聖書の解釈に親しんできた両親にとって、イエス様が示す福音の価値観は理解の範囲を超えていたでしょう。ユダヤ教の伝統とは違う新しい福音の価値観を人々にのべ伝えるというイエス様の使命についても、理解できなかったでしょう。そしてそれは、ユダヤ教の伝統に忠実であったイスラエルの民の多くの人が、イエス様の福音をなかなか受け入れることができなかったということを意味しています。

それでも、今日の福音の最後には、イエス様の言葉を拒むことなく静かに受け入れていこうとする小さな家族の姿が描かれています。

 

 現代を生きる私たちは、今日の福音から何を学ぶことができるでしょうか。

 まず一つのレッスンとして、子どもは親のものではなく、神様から預かっているものだということです。親の使命は、神様から預かった子どもの人間性を育てることです。その子どもが大きくなったとき、自分が何のために生まれたのか、神様が自分に何を望んでいるのか、社会における自分の使命をきちんとつかんで力強く生きることができるように育て導くのが親の役割です。子どももやがて大きくなったら家を出て自分の家庭を持つのですから、自分が生まれた家庭は一時的なものに過ぎません。親はこの別れを受け入れなくてはならないのです。親としての使命は、やがて巣立っていく自分の子どもが、エゴイズムを克服して多くの人々に愛の行いができるように育てることにほかなりません。子どもが何をするべきか、子どもの使命を親が決めることはできません。それは、子ども自身が神様と対話しながら探していくものだからです。神様から預かった子どもを自分の所有物とせず、神の御旨にそって大きく成長できるようにある程度の自由を認め、神と社会にゆだねることが親のつとめであると思います。

 もう一つのレッスンは、家族には大きな転機が訪れるものであり、それを受け入れ、乗り越えなくてはならないということです。日々同じように見える日常の繰り返しの中で、親も子どもも成長し、家族そのものも少しずつ変化していくものです。しかし時には非常に大きな変化があり、すぐには理解したり受け入れたりすることが難しいということが、どの家族にも必ず生じてくるでしょう。その時、家族全体はこれまでの価値観をリセットし、大きく変わることが求められます。それはたとえば、若い男女が結婚して一緒に生活しようとする時、それまでの自分中心のライフスタイルを変えることが求められるということです。それまでの習慣や言葉遣い、時間やお金の使い方などが変わる大きな転機です。しかし、赤ちゃんが生まれたら、それまでのライフスタイルはまたすべてをリセットして、新しく生まれた命のために、子ども中心の生活が始まるのではないでしょうか。さらに二人目、三人目の子どもが生まれたら、そちらにも自分たちの命と愛をそそいでいくでしょう。そして、子どもが成長して巣立つ時、親はさびしさと喜びを感じながら、また夫婦二人の生活に戻るという大きな転機がおとずれます。家族は、このようにたびたびおとずれる大きな転機に直面した時、前向きに力強く乗り越えていくことが求められています。これが、今日の福音から学ぶべき第二のレッスンではないかと思います。さらにいえば、マリア様にとっての最も大きな、そして大切な転機は、イエス様の母親から、イエス様の弟子になったということでした。

第三のレッスンは、今日の福音の最後の部分に書かれている言葉にあらわれています。

[イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった]

 この「仕える」という言葉がキーワードです。家族の幸せのために、子どもも親も夫婦も兄弟も、みんなが互いに仕えあうことが大切です。家族の一員として誰もが自分の精一杯の力で自分の家族を支えるということ、家庭の中で自分の役割をきちんと果たすということ、これが家族と自分の成長のために欠かせないことだと思います。本当の愛を生きることができる家族は、みんなが仕えあい、支えあうことができるはずです。イエス様は、人に仕えるという福音に欠かせない大切な姿勢を、家族の中で学んだのです。

 聖家族の祝日に、現代の私たちの目から見たらすこし変わった家族の話を読みながら、信仰の糧となる多くのことを学んだと思います。さらに、今を生きる私たちのそれぞれの家族のきずなを再確認するためのいくつかのヒントも、今日の福音から得ることができたのではないでしょうか。福音は、私たちが日々を充実して豊かに生きることができるための、神様の言葉です。私たちがそれをどのように受けとめ、活かしていくことができるか、それはひとりひとりにまかされています。

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C年待降節第4主日

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後ほど掲載します

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C年待降節第3主日

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C年待降節第2主日

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待降節第2主日

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C年待降節第1主日

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後ほど掲載します

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B年王であるキリスト

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(後ほど掲載します)

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2015年11月17日 (火)

B年年間第33主日

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B年 年間第33主日 マルコによる福音書13章24〜32節

 

世の中が混乱し、どんなにひどい状況になっても、新しい世界を信じて力強く福音を生きるように、イエス様は私たちに希望を与えてくださっています。

 

今私が読んだのはマルコ福音書の13章ですが、この福音はマルコ福音書に中で最も難しいページです。1314節には、マルコ自身による「読者は悟れ」という言葉が挿入されており、読者の中でわかる人はわかるようにつとめなさいとマルコが特別に勧めているのです。

今日の福音を読むと何となく暗いイメージがあると思いますが、なぜこのようなことが書かれたのか、その本質を理解するためには、歴史的な背景を知ることが大切になります。マルコ福音書は、68年頃、ローマで書かれたといわれています。当時のローマは、皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害が終わったばかりでした。また、ユダヤ人の反乱から66年にローマとユダヤの戦争が始まり、エルサレムはまだ陥落していませんでしたが、この戦争が2年間続いていたのです。当時のキリスト教徒は、迫害や戦争による苦しみやトラウマのただなかにいました。さらに、68年に皇帝ネロが死んでからは、後継者争いや権力闘争が激しくなり、ローマ内戦が起こりました。くわえて、飢饉や伝染病の流行も次々に起こり、政治的にも社会的にも大きな混乱の中で暗い時代が続き、人々は希望を失って世の中の終わりが来るのではないかと心配していたのです。当然、当時の信者たちも「私たちはイエス様の福音を信じ、希望を持って生きていたのに、なぜこのような困難ばかりが続くのか。イエス様が教えてくださった福音と今の社会の現実をどう理解すればいいのか」と不安を抱くようになっていました。このような状況の中で、マルコ福音書は書かれたのです。

マルコ福音書が書かれた頃の信者たちの思いは、現代を生きる私たちにも多少わかるのではないでしょうか。2000年前から「よい知らせ」としてイエス様の福音が伝えられているのに、なぜ世の中の不正や戦争、貧富の差はなくならないのかと思う人はたくさんいるでしょう。たとえば、日本から遠く離れた場所で起きていることですが、シリアの内戦、難民の問題などをニュースで知るたびに、なぜ多くの人がこれほど傷つき悲しい思いをしなければならないのか、いったいどうなっているのかと絶望する人がいるかもしれません。日本国内でも、さまざまな不正行為や犯罪や暴力が絶えず起きていて、イエス様の救いはいったいどこにあるのかと不安になったり悲しい気持ちになったりすることもあるでしょう。今日の福音は、日々このような思いに悩む、現代の私たちのためにも書かれているのです。

私たちは、自分がどこへ向かっているのか、将来を知りたいと思います。しかし私たちの目は何かにさえぎられていて、はっきりと見ることができなくなっているのです。誰かが、このさえぎられているものを取り除いてくれたら、私たちは現実も将来もはっきりと見えるようになります。自分の日常に悪い出来事が次々に起こった時、ただ「悪い」ということだけではなく、その出来事に隠された本当の意味があるとしたら、それを知りたいと思うでしょう。これこそが、終末論の考え方です。表面的なことだけではなく、本質を知りたい、真実を見たいという話なのです。「終末」という言葉には、この世の終わりという恐ろしいイメージがありますが、実際には逆です。今は、神の国が作られている最中なのです。これまであったものが壊されたり滅びたりするのは、もっとよい世界が新たに作られるためです。一見、すべてが壊れたり滅んだりしているように見えても、私たちの目をさえぎるものを取り除けば、そこに新しい意味と新しい世界の始まりが見えてきます。神様が望んでいる世界が作られつつあることが、はっきりとわかるようになるのです。

私たちは往々にして、一本の木が倒されるとそればかり見てしまい、その背後には森全体が静かに育っているという気配があるということを感じ取るのは、とても難しいのです。滅んでいくものの姿の中に、新たに作られつつあるものを感じることができるように、マルコは今日の福音を書きました。

さらに、マルコ福音書について補足します。今日の福音は、マルコが福音書を書き終えた68年から2年経ってから、新たにくわえられたものだと言われています。70年頃、ユダヤ戦争によりエルサレムが陥落し、神殿も破壊されていたので、マルコは困難の中にあった信者たちのために注意を与えているのです。

マルコは福音書13章の中で、イエス様の口を通してもう一つの注意を与えています。

 

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」(マルコ13:523

 

母親が陣痛に苦しむのは病気や死のためではなく、新しい命の始まりのためです。それ

まで理解できなかった混乱や苦しい状況は、新しい世界の始まりのためであることを知って前向きにとらえるようにという福音に基づいた信仰を、マルコは提供しているのです。

 

ここまではマルコ福音書とその時代について説明しましたが、ここからは今日の福音の表現についてお話しします。

今日の福音の始めにイエス様の言葉として「太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる」という表現がありますが、これは旧約聖書のイザヤ書からの引用です。

 

天のもろもろの星とその星座は光を放たず/太陽は昇っても闇に閉ざされ/月も光を輝かさない。(イザヤ 13:10)

 

 イエス様が生まれるより800年前の預言者イザヤが、福音書と同じ表現を残しています。イザヤの時代、「太陽」「星」「月」「天体」は、人間が生まれてから死ぬまでの人生そのものを意味していました。太陽は昨日も今日も明日も昇り、昼と夜は入れ替わります。このように、時が過ぎていくことをはっきりと示す確かな物体といえば、当時の人々にとっては天体であり、その動きは物質的な日々の生活と密接に結びついた重要なものでした。これらの天体が輝かなくなるというのは、何を意味するのでしょうか。

どのような文化や宗教においても、太陽はトップの位置にあります。「神=太陽」であり、太陽の次に来るのが月であるというイメージは、世界中のあちこちに存在するといえるでしょう。日本の神道においても、太陽を神格化した天照大神が日本民族の総氏神であり、皇室の祖神であるとされていることはよく知られています。古代エジプトにおいても、君主であるファラオは、太陽神ラーの子どもとして権力を与えられており、またペルシア神話の太陽神ミトラ、バビロンの月神シンも、王に権力を与える神でした。このように、太陽や月などの天体は人間社会における権力の裏付けとなっていたので、天体が輝かなくなるということは、人間が作ったシステム上での王や権力者が力を失うということを意味しています。お金や軍事力など人間社会の仕組みによる力は必ず滅びるということを、預言者であるイザヤは言っているのです。これは、偽りや暴力による古い世界が終わり、もっと人間らしい新しい世界が始まるという良い知らせです。

また旧約聖書のエゼキエル書には、イスラエルの北、現在のレバノンにあたるフェニキアのティルスの王が、できるだけ空高くのぼって神の座につき、神のようにふるまい、神のように命令することを望んだことが記されています。「わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう」と主張する君主に対して、エゼキエルは「お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ」という主の言葉を伝えます。(エゼキエル 28章)

自分たちの組織や権力を正当化するために、人間は天体の輝き神として利用しましたが、それらは所詮、自分たちの頭の中で作り上げた世界に過ぎないのです。太陽や月を神として絶対的な権威を持たせる方法は、本当の神様が望んでいる世界ではありません。そのような人間社会の考え方は崩れ落ち、本当の神様が望んでいる世界に一歩近づくということをイザヤは述べているのです。今日の福音で、イザヤと同じ表現を使ってマルコが言いたかったことは、天体の異変を恐れるのではなく、新しい世界の始まりを見てくださいということです。イエス様の福音が浸透し、神の世界の実現が近づいているという希望を持つべきなのです。

古い世界や価値観が滅びる例として、偶像崇拝の崩壊があります。また、良いことをすれば報い、悪いことをすれば罰を与えるという裁判官のような神も、古くて間違ったイメージです。本当の神は「優しい天のお父さん」として、すべての人の救いだけを望んでおり、犯罪人でさえも救おうとするのです。これは、イエス様が私たちにはっきりと示した、神の本当の姿です。

 

【人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る】

これも「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り」という旧約聖書のダニエル書の表現をふまえたものです(ダニエル7:13)。ダニエル書の7章では、世界の国々が獣のようなものだと表現されています。残酷な獣の世界の後に、「人の子」のような者が来て、真に人間らしい新しい世界が始まるとダニエルは述べているのです。

当時と比べたら現代は科学技術が発達し、自然科学に基づいた考え方が広まりました。生活も便利になり、宗教はもう意味がない、宗教は要らないと考える人が増えていることも事実です。しかし、このような考え方は間違っています。「人は何のために生きているのか」「人はどのように生きるべきか」「人はなぜ苦しむのか」というような私たちの基本的な問いに対して、科学は答えることができません。このような問いに真に答えることができるのは、宗教だけではないでしょうか。自然科学がすべての問題を解決し、すべての人を幸せにすることができないということにも、私たちは気づきはじめているのです。

ただ、自然科学は信仰を清め、新たなものにするという役割を果すことができると私は思うようになりました。たとえば、私が50年前の子どもの時にイタリアで受けた信仰教育と今の信仰教育を比べてみれば、今の方がずっとわかり易く洗練されているということは誰もが認めると思います。教会の中で聖霊が働き、福音はますます明らかになり、自然科学の影響によってさまざまなことが詳しくまた合理的に整理されて、古い物や無意味なものがカットされ、私たちが理解して実践するべき純粋な福音がはっきりとしたのです。

 

【その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める】

最後の審判でラッパを吹きながら人々を呼び集める天使を想像する人がいるかもしれませんが、ここに登場する終末論の天使はそれとは違っています。混乱の中、たった一人で信仰を守りながら生きていくのは難しく、世間の価値観の波に呑まれてしまう可能性も大きいので、私たちには仲間が必要です。このような私たちのために、神が送ってくださるのが天使です。天使は霊的な存在に限らず、私たちの身近にいる人々のことでもあります。イエス様の福音を本気で生きようとする人は、私たちにとっての天使だといえるのです。このような「天使」としての信者がいなければ、私たちの教会はばらばらになってしまうでしょう。天使には、イエス様を信じる人々を呼び集め、兄弟姉妹として一致させるという役割があります。天使は聖書の中で、神の御旨を伝えて人間を助ける存在です。ここでは、神の国の建設に協力しようとする人々を一つに集め、ひとりひとりがイエス様から離れないように守ってくれる存在が天使だといえます。

 

【いちじくの木から教えを学びなさい】

いちじくは不思議な木です。春に新芽を出さず、夏の初めになってから葉が伸びてきます。いちじくの葉を見たら、本格的に夏が始まるということがわかるのです。イエス様はいちじくのイメージを使い、私たちに時代のしるしをきちんと見きわめるように教えています。神の国のしるしは、すでに現われているのです。世の中が混乱し、どんなにひどい状況になっても、新しい世界を信じて力強く福音を生きるように、イエス様は私たちに希望を与えてくださっています。

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